2016年5月上旬撮影です。
ずっと来てみたかった、「環状三号線(外苑東通り) 弁天町~市谷柳町」の様子を見てきました。
池袋駅から歩いてここまでやってきました。
現地の様子
新目白通りから、「環状三号線(外苑東通り)」を南下しました。
まずは広い道幅の道が続いていきます。
南下して、弁天町交差点までやってきました。
ここから南側は道が狭くなっていました。
道路を渡ってみると、道路予定地だと思わるスペースが確保されていました。
南下していきました。
どんどん南下していった様子です。
さらに南下していくと、道路拡張予定地だと思われる場所に建物がまだポツポツとありました。
さらに南下です。家が低い場所にあるので、拡幅するとなると、盛土をしないといけなさそうですね。
暫く南下していくと、「お知らせ」の看板を発見!
「お知らせ」の看板です。
今まで見てきた「お知らせ」看板達の中では、わりと綺麗な方です。
工事区間です。
さらに南下していきました。
歩道が狭いです。
歩道が狭い上に、自転車も通るのでよけながら歩くのが、歩きづらかったです。
途中、文化財発掘調査工事を行っていました。
何が出たのかな?
次回、「環状三号線(外苑東通り) 市谷柳町~市谷仲之町」編へと続きます。
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コメント
2016年4月23日の大田区「東邦医大通り」の記事へのコメントにて、本件地区の拡幅について、さりげなくリクエストさせて頂いた際、元々ご視察されたいエリアである旨おっしゃってたので、近々記事として取り上げられるのではないかと密かに期待していましたので、お待ちしていた甲斐がありました。
この市谷柳町近辺は、私の生後の一番古い記憶がまさにここから始まっている思い出の地なので、特別な愛着があります。ですので、最近でもここを訪れる時はいつも、消えゆく原風景が名残り惜しくて、工事内容の「お知らせ」の看板を読むことなどすっかり忘れてしまうので、記事の看板写真を有り難く拝見しています。
年がバレて驚愕されるのが目に見えているのであまり白状したくないのですが、私が住んでた当時は、
・大久保通りにまだ都電が走っており、新宿や御茶ノ水には都電に乗って出掛けていた。
・ワンマン運転のバス(出入口が2つもある)がまだ珍しく、大半のバスは、出入口が車体中央1箇所だけで、女性車掌が巨大ながま口財布のような鞄をもって同乗し、客の乗降管理や運賃の徴収をやっていた。
なんていう、昭和の中でも遥か昔の時代です。都内の別な地区ではトロリーバスが現役で走ってた時代でもあります。
私たち一家が引っ越したすぐ後から、市谷柳町は深刻な排気ガス公害被害地として全国的に一躍有名になってしまいました。幼い私に軽い喘息の兆候がわずかに出たのを見て、危険を察知しすぐに引越を決断した両親には、どんなに感謝してもしきれません。詳しくは全てWikipediaの「市谷柳町」の通りですので、ご参照ください。そのWikiの2枚目の写真にある、大久保通り上の、交差点でもなく横断歩道も無いのに停止線だけがある摩訶不思議な信号機が、2015年まで稼働していたことが驚きです。
>感情7号さん
コメントありがとうございます!
以前頂いたコメントに触発されて行ってきました(^_^;)
前々から気になっていて、行こう行こうと思ってたのですが、中々いけず。
GWに長期休暇が取れる~と思ったので、行ってきました。
※結局は長期休暇がとれなかったのですが・・苦笑
それに歩くので、暑くもなく寒くもないこの時期が適切かと思いました。
市谷柳町で生まれ育ったのですね♪
私は生まれも育ちも田舎なので、都会の生活に憧れていました。
都電が大久保通りに走っていただなんて、びっくりです。
青山通りにも都電が走っていたらしく、その頃の光景を見てみたかったです。
ヨーロッパの街に行くと、LRTが走っているので、そんな光景だったのだろうなと思いました。
復活してくれたら嬉しいのですがね・・(^_^;)
Wikiも見てみました!
市谷柳町の排気ガス結構すごかったのですね。
私の地元は、過疎化が進み、どんどんと人が減って行っています。
裏には山があり、毎日山道を駆けまわって遊んでいました。
そんな過疎地の山にも、宅地造成が入り、今は山は無くなっちゃいました(苦笑)
慣れ親しんだ場所の光景が変わってしまうのは寂しくもありますよね。
地元に帰ると、公園には子供達は遊んでいません。
お年寄りの方しか住んでいないからです。
ですが、東京に来ると公園に子供達が遊んでいるので、活気があっていいなと思います。
これから東京も人口が減っていってしまうみたいですが、これからどうなるのでしょうね・・
心配しつつ、変わりゆく東京を眺めています。