パーク24本社ビル予定地の、13階64m「(仮称)西五反田二丁目計画」の様子 2018年7月8日撮影

事務所五反田品川区

2018年7月8日撮影です。

桜田通り沿いで建設中の、13階64m「(仮称)西五反田二丁目計画」の様子です。

久々に五反田に来てみました。普段大崎迄は良く来るのですが、五反田はあまり用事が無くて来ていませんでした。
こちらは、パーク24本社ビルが入居予定で、現場では既にタワークレーン及び躯体が組み上げられていました。

現地の様子

目黒川の南側から見た様子です。

「(仮称)西五反田二丁目計画」 2018.7.8

人道橋の本村橋から見た様子です。

「(仮称)西五反田二丁目計画」 2018.7.8

本題からは外れますが、近くに五反田橋があるのに、なぜ人道橋の本村橋があるのでしょうか?(^_^;)

桜田通りの東側から見た様子です。

「(仮称)西五反田二丁目計画」 2018.7.8

以下、建築計画のお知らせです。

「(仮称)西五反田二丁目計画」 2018.7.8

五反田は、街並みが昭和レトロな感じのする、懐かしい感じのする街です。
ですが、最近はITベンチャー企業等が増えてきているみたいで、少しずつ洒落た店も増えてくるのかもしれません。

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データ

名称:(仮称)西五反田二丁目計画
住所:東京都品川区西五反田二丁目20番1、21番1他
用途:事務所、駐車場、店舗
高さ:58.82m(最高64.57m)
階数:13階/地下2階
着工:平成29年4月中旬
完成:平成31年3月中旬
建築:パーク24株式会社
設計:日本設計
施工:大林組

過去の記事

2016年4月:五反田の目黒川沿いに出来る予定の、「パーク24 本社ビル予定地」の様子 2016年4月3日撮影

コメント

  1. inu より:

    「本村橋」かかつて殷賑を極めた五反田三業地の栄華を今に語るもののひとつで、
    渡ったところに今は廃業した旅館がある点がミソかと
    最後に見たときは聞いてはいけない理由で塀が崩れ、なにかアレだったという噂
    が飛び交っていましたね( ´ω`) 55億円詐欺……

    このあたりの経済中心は昭和初期においては西小山が中核で、五反田地区も
    現在のような準ビジネス拠点ではなく花街を主とする歓楽街でした
    五反田大橋も確か戦後に拡幅改築されたもので、まだ水運が盛んであったために
    本村橋のような人道橋程度の橋が多かったと伺いました
    この橋も五反田三業地最盛期には川を渡る酔客の往来で賑わっていたそうな。
    桜田通り整備の前には大崎小路へ通じる品川寄りの317線がメインストリート、飯屋飲み屋は今でもそちらに密集していますね
    心惹かれる店がたくさん並ぶ良い街です

    五反田大橋敷設の前は本村橋も主要路の一つ、曰く因縁深い「海喜館」は橋の袂の一等地にあった……ということになります
    無愛想な護岸で固められてしまった今日から往時を想像するのはとても難しいですねぇ

  2. 団長 より:

    >inuさん
    コメントありがとうございます。

    「五反田三業地」って何だろう?と思って調べたのですが、五反田はかつて芸者街だったのですね。品川宿みたいな感じだったのでしょうか?
    「旅館海喜館」は当時の名残りなのでしょうね。
    一部工事用のフェンスが設置されてましたが、そのまま古い旅館として営業した方が、外国人観光客に受けそうだなぁと思いました。

    昭和初期の経済の中心が西小山だなんて・・あの辺は木造住宅密集地域のイメージしかないです(^_^;)

    なるほど、五反田大橋が無かったときに、本村橋が活躍してたのですね。
    という事は、少し目黒川を北上していった、「亀の甲橋」の人道橋も似たような理由かもしれませんね。

    今の五反田よりも、芸者街の五反田の方が魅力的だったと思います。
    昔は五反田が京都の様に舞妓さん達の練り歩く、街並みだったのですね。

    今は無機質な建物が並ぶ目黒川沿いですが、また舞妓さん達の練り歩く様な街並みにはならないでしょうねぇ・・

    • inu より:

      ご想像とは異なると思いますがつまりは「歓楽街」ですね
      関東大震災で被災し焼け出された人々は郊外に移住しました
      高円寺、吉祥寺、調布の深大寺、三鷹、立川は私鉄延伸とセットで農地を宅地に転換し新興住宅地へ。
      旧来の遊郭、料亭は再都市化を始めた旧都心部から押し出されて辺縁部へ。
      渋谷から目黒、大崎へ連なるエリアは300万都市として急拡大する東京の新都心としても期待が持たれました(各種有事に備えての都市分散構想の一環でもありましたが、残念ながら予算的に頓挫し限定的な駅前規模の田園都市構想に留まりました)
      実際、東京湾岸に集中する工場や人口を背景に総合歓楽街として栄えたわけです
      山手線大塚駅も都心外周部の三業地として繁栄、今日でも街灯の表示に名残が観られます。
      昭和初期の西小山は職住近接の新都市プラン、その一形態でもありました
      当時の建築界で提唱された「新しい田園都市」として今に残るのは田園調布だけですが、西小山も状況によっては高級住宅地になっていたと想像します

      問題は、三業地には当時公認されていた売春業も併設というかそれが眼目でもあったので、再開発の際に歴史を掘り起こすとあれこれ障害があるところですね……
      東向島は小菅拘置所で有名な玉の井も、二線の赤線・遊郭地帯であっただけに
      歴史的には抹消されてしまったも同然
      「この土地はその昔」で遡ると風紀的に断絶してしまうという(´・ω・`)

      過去は過去として感情論抜きでフラットにみられないのかと思いますねぇ
      political correctness的に「正しい基準」で歴史を判断し不適合な史実を削除するなどへ一直線じゃないか、と

      • 団長 より:

        >inuさん
        コメントありがとうございます。

        「五反田三業地」Google先生で調べたのですが、芸者さんがいると書いてあったので、勝手に京都の三年坂みたいな街並みを妄想していました(^_^;)

        渋谷~大崎間は確かにもう少し整備された方が良いのかもしれませんね。確かに五反田は大崎にあった工場地帯の歓楽街として栄えたのは、なんとなく想像できます。

        西小山も田園調布みたいな街並みになる計画があったのですね。
        実は昔、西小山駅と都立大駅の真ん中?付近に住んでいた事があるので、少し驚きでした(^_^;)

        赤線に関しては、品川宿や歌舞伎町、戦後の銀座にもあったと聞いています。
        Wikipediaで「東京の花街」を調べたら色々な地名が出てきたのですが、西小山、目黒、港区芝浦一丁目等地名が上がってたのが驚きでした(・.・;)

        江戸時代、明治維新後、第二次世界対戦前、戦後等で東京の各地域がどう利用されてきたのかの経緯を調べてみるのも面白いかもしれませんね。

        目黒川沿いは、パリのセーヌ川沿いの様な街並みになるポテンシャルはあると思うのですが、今素敵なのは雅叙園と目黒川沿いの桜並木位ですかねぇ・・(汗)

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